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南 京 米
福島 恒雄
「ある明治人の記録」(石光真人編著・中央公論社刊・中公新書にこんなくだりがある。
「講武所にては一人一日白米四合、銭二百文を支給せられ、一、六の日に請負米商が撃剣道場にきたり手わたす。これにより自炊する定めなり。各組分れてそれぞれ焜炉に土鍋をかけ炊事すれども馴れぬ仕事なり。余はわが組の飯炊きを担当す。米は南京米にて炊飯に技倆を要すと言われたるも、余は初めより飯炊きを知らざれば、日本米にても南京米にても同じことなり。数日にして飯らしきものできたり」。
同書は、初版が1971年。幕末に会津若松の武家に生まれ、俘虜生活、逃亡、流浪の後、陸軍大将にまで上り詰め、昭和20年に亡くなられた柴五郎という方が綴った思い出話や遺言書をまとめたものである。このくだりは、東京における俘虜生活時の明治2年、柴少年12歳時のことで、明治維新直後のこの頃すでに、南京米という外来米が日本に入ってきており、「炊飯に技倆を要すと言われた」というから、さほどマイナーな存在ではなかったことをうかがうことができる。江戸時代から、外国から渡来した小さいもの、珍品を南京と言っていたようで、南京豆などの呼称もこの類だ。麻で作られた袋を南京袋というが、これは、南京豆ではなく、南京米をいれた袋であったことかららしい。
南京米といっても中国の南京周辺で生産されていた米ではない。隣国である韓国、朝鮮半島の米は、日本米と同じ短粒米であることから「炊飯に技倆を要す」わけでもなかったはずだから、南京米といえば、おそらく東南アジアで生産されたインディカ米を指す。
ということは、幕末から明治初期にかけて、東南アジアからある程度コメが輸入されていたことになるが、この頃からすでにコメの国際貿易の中心はタイだった。日本の幕末期は、タイではラマ四世治世の時代にあたる。ラマ四世は劇作「王様と私」のモデルとして有名だが、即位後、西欧列強国の侵略、アジアの植民地化からタイを守った賢帝としても高く評価されている。
タイは、植民地化されなかったレアな国であるが、植民地化防衛策の一つにコメの輸出にまつわる利権があったといわれ、ラマ四世治世の間に、今年大洪水に見舞われたアユタヤ地域を含む中部平原地帯に多くの運河が建設され、コメの増産が進み、輸出量が増大し、コメ輸出世界一という地位はこの時代に築かれたことになる。
東穀取の前身である中外商行会社が設立された明治7年当時、すでにタイ米が南京米と呼ばれながら日本人の生活の中にあったことになり、そのことは「中外」という名称にも表れているような気がする。輸送に時間がかかることから酸化が進み、その臭気が日本人には受入れ難かったからか、まずいコメの代表のような言われ方をし、今日に至っているが、タイの現地で口にするかぎり私にとってはパサパサ感は否めないものの、匂いは気にならず、さほどの違和感はない。インド・東南アジア地域の料理にはタイ米の方がマッチしていると思うのは私だけではないと思う。
ずい分前に本紙に「沖縄タイ米取引所」構想を書かせていただいたことがある。もともと実現性のない構想だったが、その後、東京と関西にコメが上場されたことで、もはや陳腐化した構想である。しかし、コメ先物市場を国際市場として発展させることを考えると、タイ米の上場の方がわかりやすい。タイがコメの最大の輸出国であることに今現在も変わりなく、消費地もアジア地域が主流だ。昨今のコメ市場の惨憺たる状況と、TPP交渉やASEAN+3の今後等を踏まえ、今一度、沖縄にタイ米市場を作ることを提言したい。 |