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ようこそ、コメ相場殿
市場経済研究所 鍋島 高明
「須々庄」こと須々木庄平が「堂島の晩鐘」を書いたのは昭和14年秋のことだ。はしがきに断腸の思いをつづった。
「一手千両の市が立つと謳われた堂島米市場も、幾百年の伝統をかなぐり捨て、戦時体制の衣に包まれ、投機市場として今やその影を没して仕舞うた。堂島に育って、家業を継ぎ、取引員となり、取引所の役員となり、ここに五十幾年、呆然とご時勢を眺めて、瞼に熱さを覚え、急きょ乱稿を一巻にまとめ、偲び草とする」。
須々庄は、古書街で希こう本として名高い「堂島市場史」を世に残した。6尺豊かな英姿が取引所に現れると、「和製ウィルソン」と、米大統領に擬せられるほどだった。須々庄が抱く人道主義の思想がウィルソンと共通するものがあったからだ。辛辣な人物評が売り物の大阪今日経済新聞も須々庄となると、ぐにゃぐにゃである。「純真にして高雅、廉潔にして謹厳、真摯にして着実、宏量であって開放的、人に対して上下貴賎の別を設けず、温顔温言、人に春風駄蕩の感を起こさせる」。
大阪高商を出て関西大学で法科を修め、先代須々庄から受け継いだ米穀仲買店を営みながら取引所法や取引所の機能、役割を研究した。週に一回、高松高商の講師として四国へ出掛けるのを労としなかった。先代須々庄は初め堂島の米仲買人となり、次いで北浜で株仲買も始め、「当代稀にみる謙徳家」と許されたほどで、2代にわたって大阪投機界の指導者であった。
二代目頻々庄は前出の著書を次のように締めくくった。
「昭和の米価政策の犠牲となり、街路にうずくまり、茫然とたたずむ群集も、秋の木の葉のように散り果て、朝夕に響く鐘の音も、喧騒真に響く析(き)の音も聞こえないようになった。ああ、静寂平凡な街と化した堂島、ああなつかしい堂島米相場、さらばだ、さようなら。
秋風や一手千両の夢の跡 庄平」
須々庄は俳句もたしなんだ。師匠の俳人岸本水府は「堂島浜の鐘は鳴らなくなったが、氏の筆硯はますます健やかにあってほしいものだ」とエールを送る。
そして、72年、大阪にコメ相場が帰ってくる。九月吉日、東京と同時にコメ相場が復活する。生産、流通に携わる人々に指標価格が提示される。「明日の価格」を求めてつば迫り合いが始まる。投機資金の流入で価格が乱高下しないかと危惧する人がいる。国際商品市場での石油や農産品相場の高下を遠くに眺めながら、なにかといえば、「先物が悪い」「投機はけしからん」と声を荒げるエコノミストがいる。吉田ワンマン宰相、在世ならば「曲学阿世の徒」と一蹴し去ったことであろう。
福沢諭吉を持ち出すまでもないであろう。明治31(1898)年、当時最大の出版元博文館から「日用百科全書」全30巻が発売され、家庭に備えられる。米穀取引所の意義をこう述べている。
「定期(先物)売買なるものは非常に進歩したる商業の方法にて、信用機関の最も発達したる取引の方法なり。この利益ある取引を誣(し)いて、空相場なりとか、賭博的売買なりという者あるは、なにごとぞ。今米穀取引所を禁ずるの法令出でたりと仮定せよ、日本国最大の物産たる米価は、その定まるところの中心点を失い、狡猾なる商人は、農民の不識に乗じて、価高き米を安く買取ることあるべし。米穀取引所の設あればこそ、米価の一高一低、たちまち世間の公となり、瞬時もおおうべからず」
引用文中の「誣いる」とは、ありもしないことを述べて、人の悪口をいうこと。かつて通勤電車の話題が米相場であったこともある。戦後最大の大型商品「コメ」の上場は日本経済の活力回復に向けてさまざまな効用を発揮するに違いない。コメが長い沈黙を破り、幽閉時代のうっ憤を晴らすかのように世の様々な不条理を饒舌にしゃべり始めるだろう。 |