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ピルの売却・取り壊し
福島 恒雄
 東京穀物商品取引所がビルを売却した。ビルは取り壊され、長く日本橋蛎殻町にあった日本の商品先物市場のシンボル的存在が消えることになる。
 東穀の歴史について、同所のホームページを見ると次のように書かれている。「本取引所は明治7年8月、米の先物取引のために設立された中外商行会社を源として、蛎殻町米会所、東京米商会所、東京米穀取引所と変遷し、明治41年に東京米穀商品取引所になりました。そして第二次世界大戦により統制経済が強まり、昭和14年7月に閉鎖を余儀なくされました。昭和26年の雑穀統制解除をきっかけとして、昭和27年9月に農産物の先物取引を行う取引所として新たに設立され、同年10月10日から戦前の東京米穀商品取引所の建物で取引を開始し、現在の建物は昭和62年11月に新築されました」。
 明治7年(1874年)というと、廃刀令が明治9年だから、それこそまだまだ二本差しがまかり通っていた。幕府は崩壊したが江戸時代の薫りが色濃く残っていた。佐賀の乱勃発の年で、日本という国家は、御一新、を成し遂げたからといって近代国家と武家国家の間を揺れ動いていた。そんな混沌とした時代の中で、米市場がいち早く設立されたわけで、そこには、取引所が米流通の要であり、日本という新興国の経済にとって必要不可欠なインフラストラクチャーであるという共通認識があったはずだ。そんな瞠目すべき先達の志の上に130余年もの歳月を重ねてきた蛎殻町の取引所の歴史に終止符が打たれたことになる。
 昭和62年に新築される前の建物、「戦前の東京米穀商品取引所の建物」をご存じの方はまだまだ多くおられると思う。大正時代に建造された建物で、関東大震災を経験した当時の方々が、倒壊することのないものを、という強い思い入れから作られたもので、堅牢で、強固な、そして朴訥した建物だった。新築するために取り壊した際、地盤部分に信じられない量の木材が埋め込まれていたそうで、取引所職員の方に、それの除去にかなりの時間と労力を要したという逸話を困惑と敬意のこもった声でお話いただいたことがある。一階の入り口を入り、中の扉を開けると立会場で、高台に向き合うかたちで、ガラス越しに立会が見渡せる記者クラブ、その横に飛び出す形で短波放送のブースがあった。記者クラブの名称は「みずほ倶楽部」。日経OBの秋山さんによれば、入社後、通産省の後に配属された部署が市場部で、市場部のメインはこのみずほ倶楽部。「兜も椙森も分家。みずほこそが市場記者クラブの本家本元だった」のだそうだ。その由緒正しき記者クラブも今回消滅することになる。
 谷崎の生家が、米相場の罫線屋さんだったというのは有名な話だし、明治、大正、昭和と移り変わりながらも、この蛎殻町と甘酒横丁の界隈には、日本でも指折りの経済人、文化人が跋扈していたことは、鍋島さんの多くの著書を読ませていただけばわかる。米良さんは著作で、笹川良一氏への取材エピソードを皮肉交じりに書かれていて、小豆相場という極めて小さい市場規模ながら、何とも明るく、面白い躍動感のある時代があったことを教えてくれる。
 今回の東穀ビル売却、取り壊しは、結局のところ入札価格という経済合理性による結果といわれる。先物協会は資料室に保有していた多くの知的財産を経済合理性のもとに廃棄したという。当業界全体に、経済合理性を追いかけるあまり、なにかこう歴史や知的財産を軽んずる風潮が強まっていると感じるのは私だけだろうか。経済合理性こそが大切ということは正しい。しかし、懐古主義とのお叱りを受けるかもしれないが、先人の知恵と努力の積み重ねである歴史と文化を顧みることなくして今の立ち位置を確認することはできない。アイデンティという基準点がなければ将来を展望することもできないとも思う。

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