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商品ファンド(3)
福島 恒雄
 本紙が住商リースの松沢氏、オリックスの牧氏、岡藤商事の隅井氏、東京理科大の済藤教授の座談会を企画した90年11月頃には、すでに何本かの商品ファンドが販売されていた。
  
■最初のファンド
 日本における商品ファンドの販売は、88年の三菱商事によるものが初とされ、翌89年には日商岩井やオリックスなどノンバンクが続々と参入することになる。この三菱商事が初ということを、商品ファンド業協会で作成したパンフレットに記述することではかなり揉めた記憶があることから、オリックスなどにはかなりの反発があったことは事実だ。この89年頃の商品ファンドは、元本確保型といってもファンドの一定部分(70%程度)をゼロクーポン債に充て、残る部分を先物市場に投資するものだった。このゼロクーポン債であったことが当時の大蔵省証券局の逆鱗に触れ、ある商社の担当者は「証券取引法違反でひっくくってやる」と脅されたともいわれる。この脅しの論拠は、主要運用部分がゼロクーポン債という有価証券であるからという論拠だったことから、90年になってゼロクーポン債の代替運用として金の現先取引(買取条件付き契約)が考えだされ、これによって商品ファンドの定義が確立するとこととなる。リース、商社などが続々と商品ファンドの販売を再開することになり、当時の通産省も法制化に向けて動きやすい環境もこれによりできあがったことになる。
 余談だが、元本保証ではなく元本確保型と称しているのも法制化の中で固まってきたもので、元本保証という表現は出資法に抵触する恐れがあり、預金保険機構のようにペイオフ制度が確立したもの、つまり預貯金など以外には使用できないという解釈からだった。法制化後、商品取引貝も続々と商品ファンドの設定に動き出したが、そのパンフレットに「元本保証」との記述が頻繁に見られ、それを指摘すると、「保証のほうが一般に判りやすい」と強硬に主張されるものだから、それを否定し、修正させるのにずい分苦労させられた記憶がある。
 
■当業界の姿
 いずれにしろ、90年から91年は商品ファンド法の法制化に向け、通産省が商社やノンバンクのバックアップを背に、大蔵省に正面切って戦いを挑んでいた。その現場には、担当者はもちろん相当な上層部まである種の高揚感があった反面、当業界が「商品は俺たちのもの」といくら主張しても、当業界からできるかぎり離れ、その関与を避けていた嫌いがある。当時の大蔵省は、当業界、商品先物業界の状況を見てとり、「投資家の保護」を前面に押し出して否定的な対応であったことから、通産省は、商品ファンドはあくまでリース、商社等のノンバンク主導で進められており、既存の商品先物業界の姿をできるかぎり見せない作戦をとらざるを得ない状況にあった。大蔵省の反攻を受け止め、規制緩和という時代の流れに商品ファンドをのせるには、住商リースの松沢氏のいう「非常に暗いといいますか、シャドウというか、そういうイメージ」を持たれている当業界の関与を出来る限りを排除する必要があったのである。
 そのような中で、91年暮れには、日本商品ファンド業協会の設立に向けての動きが始まったが、それも通産省独自の動きだった。

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