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一本の煙草
沼野 龍男
 ある死刑囚が、法で認められている死刑執行直前の最後の一服を所望した。しかし、その刑務所は1年前に公衆衛生保護を目指す複数の組織の圧力で、塀の中での喫煙を禁じていた。この刑務所に最近赴任したばかりの所長は、任務をミス無く遂行するためいかなる規則違反も恐れていたので、この死刑囚の要求を断った。
 「俺はただタバコを吸いたいだけなんだ。俺にはその権利があるんですよ」と、彼の関心事は目前に迫っている死ではなく、一服を吸う権利の主張だけであった。「タバコの煙がのぼれば、刑務所内のアラームがいたるところで鳴り響きます。あなたはいいかも知れませんが、看守たち所員の健康を害します。どうか一服だけは勘弁して下さい。その代わり、冷えたビールでも、ハンバーガーでも何でも用意しますから」と所長。
 喫煙を異常なまでに規制する社会風潮と、この死刑囚の主張する権利の問題が大きく社会を動かすことになる。小説では死刑の執行は止められ、塀の外に出て訴えるまでに発展する。バーチャルの世界ながら、身近で現実味のあるストーリーとなっている。原作は「幼女と煙草」、1本の煙草が引き起こす恐ろしい話の一部。
 さて、我が国では約3年前に、児童手当増額原資のためにタバコ1本当たり6円70銭の税金を2円引き上げて、1本当たり8円70銭とした。当時の試算では3000億円が見込まれた。更に、今年4月から1本当たり5円引き上げられて、20本人り1箱が100円程値上げされることが決まった。鳩山首相は増税方針を示した上で、「税収を得るためというより、国民の皆さんの命を大切にする健康のためという発想を重視したい」と理由を説明した。
 財務省の試算では、国と地方を併せて約6500億円の増収が見込めるらしい。喫煙者が本数を減らさないと仮定すると、タバコの煙税は総額年間約1.8兆円、国民1人当たり換算1万3800円にのぼる。
 人々の健康と引き換えに児童手当を補填する。満額を賄うには更に1本当たり20円を上乗せする必要があるらしい。加えて、受動喫煙の害を訴える嫌煙家の広がりで、愛煙家は益々肩身が狭くなる。何か割り切れないし、遣り切れないだろう。他方、公衆衛生保護団体が乱立し、それらが格好の天下り先と化し、年間約4億円(訂正)の税金を遣いはじめている。名目上はいかにも正しいこと、理に適ったことのようだが、実体は偽善である場合が多い。
 皮相的レベルで争っても、埒は開かない。「委託者保護」を声高に謳うのも同様ではないだろうか?
(週刊 先物ジャーナル 2010年3月1日 1028号 掲載)

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