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一平さんの顕彰額
市場経済研究所代表 鍋島 高明
かつて東京米穀取引所頭取(後に理事長)のポストは財界人には垂涎の椅子であった。その一例が東京商業会議所(現東商)}会頭の藤田謙一が東米理事長になりたくて、カネをばらまいたが、主務省等のひんしゅくを買って、窪田四郎(内田信也の兄)に落ち着いた一件がある。
今春、他界された石田朗さん〈元東京穀物商品取引所理事長)に「戦前の理事長」と題する労作があるのはよく知られているが、ある時、石田さんに「多士済々の戦前の理事長で一番偉かったのはだれだと思われますか」と尋ねた。その時、石田さんはためらうことなく「米倉一平」の名を挙げた。
明治7年設立の中外商行会社から数えて、135年に及ぶ米穀取引所の歴史で通算20年近くも、蛎殻町の指導者として市場の繁栄に尽力したのが米倉である。
もともと、蛎殻町は「稲閑堀」と称し、西郷隆盛の邸宅があったが、明治6年征韓論に敗れて西郷は薩摩に引揚げ、あとを親しかった一平に譲った。この時西郷さんは「おいどんば、金儲けは致さぬ」と言って、買った値段で一平に売却したと伝えられている。
明治7年株式会社中外商行会社を創業するが、頭取に就くのは一平ではなく、薩摩の上級藩士だった川上助八郎で、一平は現場で指揮に当たる。中外商行会社が蛎殻町米商会所になると、第2代頭取に就任、ライバルだった兜町米商会所を合併して東京米商会所に発展すると、ここで第3代及び第9代頭取をつとめ、明治26年、取引所法に基づく東京米穀取引所が誕生すると、当然のことのように一平が初代理事長に就く。一平は「お米の取引所」の顔であり、シンボルであった。
一平は投機心が旺盛であるばかりか、賭博も大好きで、一度、現場に踏み込まれ、逮捕されたこともある。蛎殻町の福井亭という料理屋の2階で大物相場師の石崎政蔵や料亭の女将と花札に耽っていて、賭博犯として「懲罰3月、科料50円」に処せられる。
懲役でも禁固刑でもない「懲罰」という刑には石田さんも首をかしげる。裁判によらず、警察の判断だけで即決、上告を認めないという奇怪な処分だった。
一平は自由民権思想の持ち主だったから、折からの民権運動封殺の一環として別件逮捕だったかも知れない。
一平は「商品先物記念館」が完成した暁には真っ先に顕彰額が掲げられる人物である。八方塞がりの現今のような時こそ、先達を顕彰するよう心掛けたい。 |