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相場師としての北川記者
市場経済研究所代表 鍋島 高明
昔の報知新聞は相場報道には格別力を入れていた。清廉、気骨の政治家松村謙三が早大から報知新聞に入社した時、社主の三木善八が「君は相場を知っているか。相場を知らないで書く経済記事など玄人からみるとなんの価値もない。おれが金を出すから相場をやれ」と、当時の金で500円(今なら100万円強か)くれ、先輩の森泰介記者の指導のもと、相場と格闘する。明治39年のことだから兜町では鈴久が話題を一人占めしていた。半年後、1000円儲けて三木邸を訪ねると「相場が分かったらやめろ。その金は君にやる」。松村は先輩と豪遊した。
そのころ報知新聞の相場主任記者をやっていたのが北川幾之助。「君、今や国民新聞の野城久吉君とともに相場記者の両横綱として斯界に重きをなしつつあり」(雑誌「経済界」)。
北川は同時に相場師としても名を成しつつあった。大阪で改進新聞に簿を置いていた時、相場を盛んに仕掛け、大儲けして南の名花を手折って雷名をとどろかした豪傑である。
北川は米穀、株式とも手掛けたが、ある時一気に十数万円儲けて「小成金」と謳われた。
当たり屋・北川将軍の一挙一動は新聞紙上で大いに注目すべき材料の一つになった。しかもわずか1週間でこの十数万円を煙の如く散じた。新人松村記者から見ればまばゆい存在だったに違いない。
「君の金を得るや半宵のうち清遊に数百円をなげうち、友人が来て困苦を訴え、君の補助を請う者あるや、親疎を問わず、快くこれを与う。かつてその返済を求めじ」(同)
北川は金銭には至って淡白で、「相場師が金を重大視することは大禁物。金銭を見ること、木っ葉の如くにして、初めて回天の事業(相場のこと)を試みることができる」というのが持論だった。
北川はしばしば相場に曲がった。そのつど借金を背負うことになるが、借りた金は必ず返した。貸倒れには無頓着だったが、借倒しは決してしなかった。だから窮地に陥った時、捲土重来の資金調達にこと欠かなかった。
寡黙で他人の悪口を言わず、自己の行為を弁解したことがなかった。まさに聖者の領域にあった。斗酒なお辞せず、はしご酒を得意とし、相場に大勝ちすると黒塗りの二頭立て馬車に美人を満載して景気をあおったという。
昨今、街の景気が暗鬱、沈滞、無気力の極に陥り、人皆寡言、取材もままならずついつい100年前の蛎殻町黄金期の一断面をのぞき見た。北川もいっているが、悲境にさらされて初めて相場師の真価が問われる。人の真贋もまた、然りか。 |